2003年11月16日
玉野市西北地区市民センター講演会
「ぼくたちの言葉を奪わないで」〜ろう児の人権救済申立〜
全国ろう児をもつ親の会代表:岡本みどり氏

(改行:60文字)

この文章は11月16日玉野の西北地区市民センターであった講演会の内容を自分の理解できた範囲でまとめたものです。
印象に残ったところだけを書いたもので、主観や自分なりの解釈がかなり含まれているので、間違ったところがあると思います。

バイリンガルとは日本語手話と書記日本語を組み合わせた言葉である。現在日本の聾唖教育は聴覚口話法が用いられている。
聴覚口話法では教育上不都合が生じる。それは聴覚口話法の不確実さからきている。

例えば、「岡山へ行く」という文章を言った場合、音声で聞くと、「岡山へ行く」というそのままの意味と同時に、その発声や抑揚
から「行くのが嫌だ」とか「行くのが嬉しい」のような感情がわかる。
しかし聴覚口話法で教育すると「岡山へ行く」というそのままの文章の意味しか伝えることができない。

「雨に降られた」という文章を教える場合、この文章には「雨が降る」「残念」という意味をふくんでいる。
このような言葉の場合も、日本手話つまり自分の言語がしっかりしていなければ理解しにくい。
このように十分な言語理解、コミュニケーションができない状態では発達上、良いとは言えない。

そこで「全国ろう児をもつ親の会」では聴覚口話法でしか行われていない現在の日本の教育を見直し、バイリンガルでの教育という
選択肢を増やすということを目的として活動している。聴覚口話法はインテグレーション(統合教育)と関連している。
聴覚口話法で教育することは健聴者とできるだけ同じような教育をするということである。
確かに他の障害分野でのインテグレーションは良い面もあるかもしれない。
しかし聴覚障害者の場合は別である。聴覚口話法を習得するのは大変で、習得しても100%伝わるとは言えない。

こういうことがある。
授業中、耳に障害を持っている子に、隣の席の子が「休み時間、何して遊ぶ?」と話しかけた。
その子は「ブランコがいいな。」と答えた。そのあと、後ろの席で「いつもブランコだから今日は跳び箱にしようよ。」と言った。
周りのみんなは「うんうん。」とうなずいた。その子は自分の意見に周りがうなずいているのだと思った(条件付の読み取り)。
その子が休み時間ブランコの所に行ってみると誰もいなかった。
その子は始め友達に仲間はずれにされたのかなぁと思ったが、多分聞き取れなかったんだと自分を責める。

理科の時間、リトマス試験紙の色が何色に変わるかグループで話し合ってグループで結果を発表することになったとき、耳に障害を
持った子が「私は青だと思う」と言う。
「でもぼくは黄色だと思う」それに他の子が意見を言う、続いてあっちこっちから意見が出る(頭上の会話)。
結局、耳に障害を持った子は、私たちのグループはこんな結論になったよ、という結果だけ知ることになる。
過程、理由がわからない。このような、目的を知らないまま行動することが続けば「みんなのあとについていけばいいや。」となる。

健聴の子のなかであまり良い友だち関係が築けない耳に障害を持った子がいるとき、その子がテストで良い点を取る。
「耳が聞こえないのに勉強できて偉いねぇ」と言う先生もいるらしい。
そんな中その子はテストで良い点をとることで自分の価値を見出そうとする。

3つ例を挙げたが、このようなことは生育環境として良いとは言えない。
ろうの子どもへのインテグレーションは適さない。

インテグレーション教育を耳に障害を持つ子の母親が止めようとしないのは、親が子どもの直面している悪い環境を知らないから
なのではないか。子どもは自分が辛い思いをしていると言うと、親は悲しい思いをすると考えて言えず、その状況が親に十分伝わって
いないのではないか。

聾学校へ行けば良いかというと、そうでもない。多くの聾学校では年齢相当の教科書を使っていない。
聾学校の教員の質の向上と、バイリンガルの導入によりこの問題は改善できるのではないか。
スウェーデンでは手話を一つの言語と認めている。親は手話の習得を240時間無料で受けることができる。

不確かなコミュニケーションは教育には不適切であるということは1994年サマランカ宣言などで国際的にも認められている。
コミュニケーションが少ない教育に耐え、健聴者の社会に関わるのではなく、人格形成を重視したバイリンガルの教育を受け、十分
コミュニケーションをとり、芯を固めたうえで社会と関わるべきである。

文:清水俊彦(吉備国際大学3年)

[TOP][BACK]